記号を焼べ、魂で爆ぜる
2026年2月22日
今年も企画展「第29回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」を観るため,川崎市岡本太郎美術館へ足を運びました。学生時代から毎年欠かさず訪れており,美術館の重厚な扉を押し開ける瞬間には無意識に「毒」を期待する習慣が身についています。没後30年を目前に控えた今,岡本太郎という巨大な磁場は,第29回展という舞台においてかつてない熱量と,それに伴う深いパラドックスを露呈しているように感じられました。
岡本太郎が遺した三原則――「芸術は爆発だ」「今日の芸術は、うまくあってはいけない」「きれいであってはならない/ここちよくあってはならない」――は,本来,公募展の根底を流れる血脈であるはずです。しかし創設から四半世紀を超え,応募総数644点という激戦を勝ち抜いた21組の入選作品が並ぶ展示空間を歩くと,そこには静かな絶望と既視感が漂っていることに気づかされます。皮肉なことに,太郎が徹底的に破壊しようとした「型」や「制度」そのものが,いつの間にか太郎の精神をパッケージ化し,新しい才能を閉じ込める装置へと変質してしまったのではないかという違和感が拭えません。
この制度化のメカニズムをもう少し具体的に考えると,応募作家は無意識に審査員の評価軸を学び,原子力や震災,縄文的な原始性といった太郎的アイコンを「正解」としてなぞり,記号化して消費しているように見えます。表現の硬直化こそが,現代のTARO賞が直面している最大の臨界点であると私は考えます。ここで重要なのは,問題が単に模倣の増加にとどまらず,制度そのものが創造の可能性を狭める方向へ働いている点です。
そのような制度的引力の中で,最高賞である岡本太郎賞に選出された高田哲男氏の《FUKUSHIMA5000》は,2026年という歴史的転換点において極めて重層的な意味を突きつける作品でした。

東日本大震災から15年,日数にして約5,440日。高田氏はこの膨大な歳月を,10センチ×12センチという「手の中で完結する生活の最小単位」を象徴する紙片に描かれた5,440枚ものドローイングの集積として顕在化させました。タイトルに含まれる「5000」という数値は単なる日数の近似を超え,放射線防護の閾値を想起させます。
作品の物理的仕様と制作手法は,表現の意図と密接に結びついています。高田氏は阪神大震災の被災経験を公言しており,その個人的履歴が本作の時間感覚と記録性に深く影響しているのでしょう。事務用ボールペンという,一度書けば消せない非可逆的なメディアを用いることで,高田氏は抽象的な「死の影」を具体的な「生の集積」へと置き換える精神的な中和作業を試みています。毎日一枚ずつ描き続けるという持続は,デジタル化され瞬時に情報が揮発する現代社会に対するラディカルな身体の抵抗であり,微細な記録の累積が情報の密度による爆発となって観客の前に積み重なります。
展示空間にうずたかく積み上げられた「土のう」は福島の除染作業を象徴する最も直接的な物質的記号ですが,そこには美術館の展示規定という制度との密やかな摩擦が隠されています。「美術館という聖域の衛生規定」と「汚染された現実としての福島の土」の間に生じる技術的な葛藤は,土を土として展示できないという制度の限界が,そのまま福島の現実を直視できない現代社会の写し鏡になっている点で,本作の鋭い批評性を際立たせています。
高田氏の《FUKUSHIMA5000》は公共性に開かれた再生の叙事詩としての側面を持っています。論理的整合性を備え,審査員が評価しうる言語化に耐える構成を持ちながらも,その根底には個人的な喪失と長期的な記録の倫理が横たわっています。私はこの作品を,社会的責任を引き受ける「誠実な労働」が獲得した21世紀の新しいモニュメントの形として受け取りました。
一方,準ずる賞である岡本敏子賞を受賞した馬場敬一氏の《死と再生のイニシエーション》は,高田氏の「公の記録」とは対照的に,個の深淵から湧き上がった圧倒的な情念で空間を支配していました。

馬場氏が提唱する「人間発掘」という概念は,素材の中に埋没している人間の本質を掘り起こす考古学的行為を指しますが,本作ではその視線が母の死と,その後に発症した重度の鬱病という極めて私的な冥界降下へと向けられています。
三位一体の立体曼荼羅として構成された本作は,ダンボールという容易に傷つき崩れる素材を用い,それを描き,破壊し,再構築し,最終的に高光沢の樹脂で固めるという四段階の工程を経て完成しました。これは精神医学におけるカタルシスから自己再編成に至る治癒のプロセスそのものを物質化したものであり,かつて脆かった素材が樹脂によって脂で固められたかのような妖しい光を纏い,時間の風化に耐える「聖遺物」へと変質する錬金術的な転換が起きています。福田美蘭氏や山下裕二氏が評したように,負のエネルギーを正へと転じさせる狂気的な執念が本作には宿っており,観客の身体に直接訴えかける力を持っていました。
この二つの作品を前にして私が強く感じたのは,概念的な理解と直感的な体験の鮮やかな乖離であり,同時に「どちらがより太郎的か」という根源的な問いでした。高田氏の作品は公共性と論理性を備え,最高賞にふさわしい社会的スケールを持っています。しかし多くの観客が馬場氏の作品に太郎の本質に近い衝撃を感じるのは,そこに説明以前の叫びが充満しているからではないかと考えます。ユング心理学におけるアニマとしての女神や,メメント・モリとしての髑髏といったアイコンは,単なる太郎の模倣ではなく,作家自身が死の淵から生を掴み取るために必要とした救済の具現です。
もし高田氏の作品を規律正しく積み上げられた「祈り」とするならば,馬場氏の作品は自己を呪い,打ち砕き,そこから噴出した血まみれの生を肯定する「絶望の爆発」です。芸術の真髄が「一個人の魂がいかにして絶対的な自由を獲得するか」にあるとするならば,馬場氏の作品こそが第29回展における最も誠実で過激な,最高賞の価値を内包した傑作であるのではないかと考えます。
この問題は文壇における芥川賞を想起させます。芥川賞の選考において芥川龍之介の作風をなぞることはむしろ「古さ」として否定されます。問われるのは,芥川が示した時代の不安に対する鋭いメスを,現代の全く新しい文体でどう体現するかという精神の自律です。しかしTARO賞においては,太郎が愛用した原色や特定のモチーフが強力な記号となってしまったがゆえに,多くの作家がそれを盾にして新しい表現への冒険を回避しているように見えます。第26回で「該当者なし」という厳しい結論が出されたことは,この賞が単なる模倣者のための場ではないという強い拒絶であり,ある意味で最も誠実な選考だったと言えるでしょう。岡本太郎が伝統を「燃え続けている火」と表現したように,火を絶やさないためには常に新しい薪を投げ込み,時には古い薪を燃やし尽くす必要があります。
来月をもって川崎市岡本太郎美術館は長期休館に入り,TARO賞も一時休止となります。その休止前最後の受賞作として,15年という歳月を総括し未来へと記憶を繋ぐ高田氏の作品が選ばれたことは,賞の歴史にとって象徴的な意味を持ちます。ですが私たちが真に期待すべきなのは,太郎を敬うフォロワーではなく,太郎の作品を横に置いて全く別の地平で爆発してみせる不遜な才能です。
高田氏が示した「情報の密度による爆発」と,馬場氏が示した「実存の熱量による爆発」という二つの異なる光は,私たちに過酷な問いを突きつけます。自分自身の絶望や社会の矛盾をいかに愛し,いかに美しく固めていくことができるかという問いです。デジタル時代にAIが平滑なイメージを量産し続ける今,事務用ボールペンの磨耗や,樹脂で固められたダンボールの歪みといった物質的質量による精神の固定こそが,私たちの存在意義を地上に繋ぎ止める唯一の錨になるはずです。
太郎という名前を掲げた賞が,いつか「岡本太郎」という呪縛すら不要になるほど,無名の新しい才能たちが火花を散らす場になること――それこそが彼という巨人が私たちに遺した,最も過酷で美しい宿題であると私は信じています。私たちは太郎の影を見るために美術館へ行くのではありません。まだ誰も見たことのない,明日を照らす光に出会うために行くのです。その光がどれほど不格好で理解不能であっても,それこそがべらぼうな芸術の真実であると,私は確信しています。
三村(晃)

