Auch ein alter Baum will noch neue Zweige treiben
2025年12月20日
先日,巨福山建長興国禅寺で開催された“Zen Night Walk KAMAKURA”を訪れ,伝統と現代科学が交錯する稀有な瞬間に立ち会いました。ここは,単なる歴史的建造物ではありません。建長5年(1253年),鎌倉幕府第5代執権・北条時頼が南宋の高僧,蘭渓道隆(大覚禅師)を招いて開山したこの寺は,日本で初めて「禅寺」と称された純粋な禅の専門道場です。

当時の日本は諸宗派が混在する「兼学」が主流でしたが,建長寺は宋朝の厳しい禅風をそのまま導入した,いわば当時の最先端を行く宗教的・知的アカデミーでした。かつてこの地が「地獄谷」と呼ばれる処刑場であった事実は,生と死,苦悩と悟りが表裏一体であることを説く禅の本質を,その立地自体が象徴しているかのようです。
夜の静寂の中で特に私の心を捉えたのは,方丈庭園で繰り広げられた「雲海 風龍の舞」でした。重要文化財である唐門の先に広がる庭園が,立ち込める霧と幻想的な光によって変貌を遂げ,まるで龍が天空を舞うかのような躍動感に満ちていました。

この体験をより深いものにしていたのが,脳科学に基づいて設計された「ニューロミュージック」の存在です。
人間の脳波は,深いリラックス状態や瞑想状態においてアルファ波やシータ波が優位になることが知られています。境内に流れる音響は,単なるBGMではなく,参加者の心拍や歩行のリズムと共鳴し,聴覚刺激を通じて脳のネットワークを調整するバイオフィードバックのような役割を果たしていました。歩行禅という伝統的な身体技法が,現代の認知科学的アプローチによって再解釈され,自己の意識が外界の風景に溶け込んでいくような感覚――これこそが,現代における「悟り」への入り口なのかもしれません。
しかし,この美しくも革新的な試みの背景には,現代の日本寺院が直面している極めて深刻な社会情勢があります。
現在,日本には約7万7千の寺院が存在しますが,いわゆる「消滅可能性寺院」の増加が社会問題となっています。宗教法人法に基づく税制優遇措置,すなわち境内地における固定資産税の非課税や,宗教活動収入(お布施等)に対する法人税の免除などは,確かに文化資源の保護に寄与してきました。しかし,伝統的な「檀家制度」の崩壊や,急速な多死社会・人口減少に伴う寄付金の激減により,国宝や重要文化財を維持するための莫大なコストを賄うことは,もはや従来の経営モデルでは不可能です。たとえ税制上の優遇があったとしても,木造建築の修繕や防災設備の維持,庭園の管理には数億円単位の資金が継続的に必要であり,補助金だけでは到底追いつかないのが現実です。
こうした状況下で,寺院が自ら「稼ぐ」という選択をすることは,決して世俗化への屈服ではなく,むしろ聖域を守り抜くための「覚悟の現れ」であると私は感じます。近年,愛犬を連れての参拝を許可する寺院が増えていることも,同様の文脈で捉えるべきでしょう。核家族化が進み,ペットを家族の一員として慈しむ現代人の価値観に寄り添うことは,かつて寺院が地域コミュニティの結節点であった歴史を考えれば,極めて自然な適応と言えます。
国宝という厳格な空間でライトアップを行い,デジタルアートを取り入れる。一見すると伝統への挑戦とも取れるこれらの行為は,実は心理的な敷居を低くする試みではなく,現代社会において機能不全に陥りつつある「仏教の知恵」に,再びアクセス可能な窓口を設ける作業に他なりません。寺院が自律した経済主体として立ち上がり,伝統文化を単なる遺物としてではなく,生きた体験として提供することで得た収益を,再び文化財の保護へと循環させる。この持続可能なサイクルこそが,日本が誇る精神性を次世代へ繋ぐための唯一の道ではないでしょうか。
歴史ある建長寺の風が,最新のテクノロジーを纏って私の頬を撫でたとき,そこには伝統を守るための「攻めの姿勢」が確かに存在していました。それは,自らの足で立ち,現代社会の荒波を航海しようとする,新しい禅寺の姿そのものでした。
三村(晃)

